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今回は、時代による酒造りの変遷と日本酒のル−ツ等を辿ってみたいと思います。
日本酒は穀類の中で稲作文化の流れの中にありますが、ではそのル−ツは 稲作の最も早いといわれるインドなのか、 中国からなのか、いろいろな説がございますが、私は最も近い隣国である中国からではないのかと思います。
漢の事始史書による中国の酒の記録には、 今から3665年位程前の殷の時代に始まったと言われております。
中国の酒の逸話の中に、 禹(う)の時代になって狄儀(てきぎ)という人物が偶然、 米と水(キビと麦の説もあり)から酒を造ったのであったが、 それまでの酒はただ薄っぺらで、米の酒の芳醇無比、甘味無類の味わいに比べ問題にならなかった。
狄儀は早速、禹王に米の酒を献上し、自分の発明した酒を「天の美禄」と自慢し、 日頃、民衆の為に身を粉にして尽くす禹王に酒をもって慰めた。
王は一口飲んでみると「なるほど旨い」、二口飲んでみると「何と甘美な喉越しか」王は三杯、 四杯と重ね味わううちに体が綿の様にぐったりとなり、 意識が朦朧と目が霞んでいつのまにか眠り込んでしまった。
翌朝、狄儀は王に呼び出された。大得意の態度でまかり出たのだが、王の言葉は意外であった。「お前の造った酒は旨い事は知っている。しかし それから先の事は一向に知らないらしい。この酒は飲めば飲むほど、飲みたくなる酒だ。そして、しまいには目がくらみ、あたりが何も判らなくなってしまったではないか。いづれ旨い酒の為に国を滅ぼすものが出るに違いない。それゆえ、今日限りで酒を造るのはまかりならぬ。」と叱りつけたそうです。
これは「米の酒は美味しく、安らぎを与えるけれど、ほどほど呑め」と言う教えなのです。酒に飲まれて、自覚を失ってはだめだと言う事なのでしょうね。
では、日本酒の酒造りの歩みと申しましょうか、どのような経緯を経て今日の清酒造りの方法が出来上がったのでしょうか。
酒造りに携わったのはどの様な人々で、彼らはどの様に酒を造ったのか、時代の背景を辿って日本の酒造りがどう変わっていったのか。いつ、誰が、どの様に、となりますね。
江戸時代に入ってから、一世紀後の元禄期には近畿地方ですでに、 千石(18万リットル)〜二千石(36万リットル)の生産規模を持った造りの酒屋の成り立ちがみられます。
江戸時代を通じて「どぶろく」と呼ばれる酒は、 封建の世の庶民にこよなく親しまれてきました事はご承知のとうりで、 今も「どぶろく」の愛称は酒好きの人達には懐かしい響きを持っております。
日本の酒造りに対して、初めて西欧の近代科学的解析を行なったのは、明治の初め来日した御雇い教師R.Wアトキソンであったそうです。
これを契機に近代科学的な試験研究が始められたのですが、昔は、清酒とは言わず「すみさけ」、或は「諸白(もろはく)」と呼び、 掛米、麹米と精白した米を使って造ったもので、これに対し、にごり酒は「どぶろく」と言い、掛米だけで造った「片白」とも言ったのです。
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