創業昭和22年(1947年)、東京から一番近い南国の島・八丈島は、東京の南方海上287キロメートルにあり、東山(別名:三原山)と西山(別名:八丈富士)の二つの火山が接合してできた太平洋に浮かぶひょうたん型の島です。島は暖流黒潮の影響を受けて海洋性気候となっており、南国情緒溢れる豊かな大自然に囲まれています。江戸時代の頃には、罪人が島流しされる流刑の島として、初期のころには政治犯、思想犯が流されてきたという歴史があります。
八丈興発株式会社は、八丈島三根地区...
|
|
創業昭和22年(1947年)、東京から一番近い南国の島・八丈島は、東京の南方海上287キロメートルにあり、東山(別名:三原山)と西山(別名:八丈富士)の二つの火山が接合してできた太平洋に浮かぶひょうたん型の島です。島は暖流黒潮の影響を受けて海洋性気候となっており、南国情緒溢れる豊かな大自然に囲まれています。江戸時代の頃には、罪人が島流しされる流刑の島として、初期のころには政治犯、思想犯が流されてきたという歴史があります。
八丈興発株式会社は、八丈島三根地区にて地産者60名の株主で設立した島内では一番新しい蔵元です。八丈島の特産物を興して発信しようと地場産業振興を志し、初代・小宮山善之助氏が昭和22年に創業しました。当初はサトウキビで黒糖焼酎を造っていましたが、昭和30年に焼酎製造免許を取得したことにより芋焼酎の製造を開始します。
本格焼酎といえば、まず最初に九州、沖縄を思い浮かべると思います。芋の鹿児島、南宮崎。麦の大分、壱岐。米の球磨。泡盛の沖縄に、黒糖の奄美とそれぞれに地域性と歴史を有しています。やはり、温暖な気候である伊豆諸島の八丈島も清酒より焼酎造りに適しており、八丈島独自の文化から生まれた地域性の高い焼酎が造られています。
また、伊豆諸島には全部で10場の蔵元があります。大島、神津嶋、新島、三宅、青ヶ島に各1蔵。八丈島は人口8千人の島民に対し5蔵もある焼酎島です。酒といえば勿論焼酎の事、島民は愛情を込めて島酒と呼んでいます。
時は移り、ペリー艦隊が浦賀に来航した嘉永六年(1853年)、鹿児島は阿久根の商人・丹宗庄右ェ門(たんそうしょうえもん)が、琉球との密貿易(抜け舟)の罪によって八丈島に流罪となりました。当時、八丈島では雑穀を使ったドブロクを飲んでいました。庄右ェ門は薩摩芋を見て、九州ではこの薩摩芋で酒を造っていると言って、故郷より蒸留器を取寄せて島民に焼酎造りを伝授したといわれています。これが八丈島の焼酎造りの始まりです。
このような歴史から焼酎の教科書には、芋焼酎の産地として鹿児島、南宮崎に加えて、伊豆諸島も入っています。以前は農家がさつま芋を造り、蔵がそのさつま芋を買い焼酎を造り、その出来あがった焼酎を農家が買うと言う様にお互いにお客さんであるという関係にありましたが、昭和初期になると、観葉植物を栽培する農家が増え始め、原料の芋の確保が難しくなりました。その頃から島の各蔵元は麦焼酎の導入を検討し、八丈島特有の文化である芋麦ブレンド焼酎と麦焼酎を造り始め、現在の様に麦焼酎、芋麦焼酎、芋焼酎と三種類の独自の文化が育まれてきました。
情け嶋蔵では、仕込みからラベル張り、出荷に至るまでの全工程において一本一本手造りにこだわり、従業員全員が心のこもった、八丈島の自然が息づく商品をお届けすることをモットーに、毎日飲んでもらえる美味しい焼酎造りを追及しながら日々風土が造り上げた本物の焼酎造りに励んでいます。
|
|